職人の手、継がれる心

経緯絣に宿る物語:久留米絣職人が語る藍、糸、そして暮らしの哲学

Tags: 久留米絣, 藍染め, 絣, 染織, 手仕事

風土と藍が織りなす絣の表情

福岡県南部、筑後川流域に位置する久留米市周辺で二百年以上にわたり伝えられてきた久留米絣。この地で育まれてきた木綿の栽培、藍の育成、そしてそれを糸に、布へと昇華させる一連の営みは、単なる技術の集合体ではなく、この地の風土と人々の暮らしが深く結びついた文化そのものと言えます。特に、経糸と緯糸の両方に事前に染め分けた「絣」を組み合わせることで模様を生み出す「経緯絣(たてよこがすり)」の技法は、久留米絣の大きな特徴であり、ここに職人の高度な技術と深い洞察が宿っています。

藍と向き合う:色の深みと生きた染め

久留米絣の最大の特徴は、その美しい藍色にあります。天然の藍で染められた糸は、使い込むほどに色が馴染み、独特の風合いを増していきます。藍染めの工程は、まさに生き物と向き合うようなものです。藍甕の中で発酵する藍は、気温や湿度、微生物の状態によって日々変化します。染め師は、その微妙な変化を感じ取りながら、糸を浸ける時間や回数を調整し、望む色合いへと導いていきます。

「藍は生きとるけんね。その日の藍の機嫌を見ながら染めるのが大事たい」と語る染め師の手は、長年の経験によって深い藍色に染まっています。藍建てと呼ばれる藍を建てる作業から、幾重にも糸を染め重ねる「縒り灰汁(あく)」、そして空気に触れさせて酸化発色させる「藍返し」まで、一つ一つの工程に膨大な知識と経験、そして何よりも藍への敬意が求められます。この生きた藍から生まれる色は、工業製品では決して表現できない、深みと奥行きを持った特別な色なのです。

模様を生む緻密な手仕事:括りと設計

絣の模様は、糸を染める前に設計され、「括り(くくり)」という技法によって生まれます。経糸と緯糸それぞれに、模様となる部分を木綿糸などで固く括り、藍染めを行います。括られた部分は染まらず、白く残ります。この括りの正確さ、糸一本一本のわずかなずれが、織り上げた時の絣独特の「かすれ」となり、久留米絣ならではの温かみのある表情を生み出します。

「絣の設計図は頭の中にあるけど、それを糸に落とし込むのが難しいとこたい。一本でも間違ったら、模様が崩れてしまうけん」と括り師は言います。括り師は、布全体にどのような模様を出すかを計算し、膨大な量の糸を一本ずつ手作業で括っていきます。幾何学的な模様から、動植物、文字に至るまで、様々な模様がこの手括りによって生み出されます。特に、経糸と緯糸の絣を正確に合わせる「経緯絣」は、高度な技術と集中力を要する、久留米絣の神髄とも言える技術です。括られた糸の束がほどかれ、白と藍のコントラストが現れる時、初めて模様の原型が姿を現すのです。

糸と糸が交差する静寂:織りの哲学

藍に染められ、括りが解かれた糸は、手機(てばた)にかけられ、織り師の手によって布となっていきます。手機での織りは、非常に根気のいる作業です。一日に織れる長さは限られており、一反の布を織り上げるには長い時間を要します。しかし、手機で織られた布には、機械織りでは得られない、独特の風合いとしなやかさがあります。それは、糸と糸がぶつかり合うことなく、優しく寄り添うように交差していくからだと言われます。

「機織りは、糸との対話みたいなもんかな。一本一本の糸の声を聴きながら、ゆっくりと織っていくとたい」と織り師は語ります。機を織る時の「カタコト」という規則的な音は、静寂の中で職人が糸と向き合う集中力の証です。経糸と緯糸、それぞれの絣が正確に交わるように目を凝らし、一打一打、慎重に筬(おさ)を打ち込みます。この静かで反復的な作業の中に、職人の精神的な安定と、布への深い愛情が込められています。織り上げられた布は、括りの痕跡が「かすれ」として残り、手仕事ならではの温かみと奥行きのある表情を見せます。

地域に根差す分業体制とその変化

久留米絣の生産は、伝統的に高度な分業体制によって支えられてきました。藍の栽培、糸の準備(紡ぎ、染め)、絣括り、織り、そして仕上げというように、各工程に専門の職人がいます。この分業体制は、それぞれの技術を深く追求することを可能にし、久留米絣の品質を維持してきました。また、それは同時に、地域内の人々の繋がりの強さ、共同体としての営みを反映しています。

しかし、時代の変化と共に、この分業体制も変化を余儀なくされています。後継者不足は深刻な課題であり、かつて多くの職人がいた各工程で、担い手が減少しつつあります。一部の工房では、一人の職人が複数の工程を担うようになり、また機械化を取り入れることで効率化を図る試みも行われています。伝統的な技法を守りつつ、いかにして現代社会の中で持続可能な形で継承していくか。これは久留米絣に限らず、多くの伝統工芸が直面している共通の課題です。

暮らしに息づく絣、未来への眼差し

かつて、久留米絣は庶民の日常着として、この地域の暮らしに深く根差していました。丈夫で肌触りが良く、藍染めは虫除けや保温効果もあるとされ、人々の生活を支えてきました。現代では、洋服が主流となり、久留米絣はより特別な、あるいは美術工芸品としての側面が強くなっています。しかし、近年、天然素材や手仕事の価値が見直される中で、久留米絣の持つ素朴さ、温かさ、そして丈夫さが改めて注目されています。

若い作り手の中には、伝統的な技法を用いながらも、現代のライフスタイルに合わせた新しいデザインや製品を生み出す試みも行われています。これらの新しい取り組みは、伝統を守るだけでなく、未来へと繋いでいくための重要な一歩と言えるでしょう。久留米絣は、単なる布ではありません。それは、この地の自然と共に生き、手仕事に深い愛情を注いできた人々の歴史と哲学、そして彼らの暮らしの物語が織り込まれたものです。

経緯絣の一粒一粒に宿る「かすれ」は、完璧ではない手仕事の証であると同時に、そこに込められた時間と想いの深さを示しています。久留米絣の布に触れる時、私たちは単に美しい模様を見るだけでなく、藍の色に宿る自然の息吹、糸を括る指先の緻密さ、そして機を織る静かな音色に耳を澄ませ、この布に込められた職人の心と、それが育まれた地域の物語を感じ取ることができるのです。伝統と革新の間で揺れ動きながらも、久留米絣は今日も、静かに、しかし確かに、未来へと織り進められています。